第九回 『万葉集』の和歌にはなぜ敬語があるのか(二)
『伊勢物語』の「男」と「女」前回に引き続き、『万葉集』の和歌に敬語があり、平安時代以降の和歌にそれがないことの意味を考えていく。大筋のところは前回述べたので、ここでは余談的な内容を記すことにする。 前回、恋と結婚の違いについて述べた。その上で、男女の間に交わされる恋歌が、「私」の歌、褻の歌の最たるものであることについても触れた。こうした歌では、敬語は基本的に用いられない。なぜなら、前回も述べたように、恋は一対の男女が、社会の秩序(身分や家柄等々の秩序)から離脱して、二人だけの独自の世界を作るからである。そのありかたが端的に現れるのが、平安時代初期の歌物語、とりわけ『伊勢物語』になる。一例を挙げる。 昔、男ありけり。懸想じける女(思いを寄せた女)のもとに、ひじき藻(海藻のヒジキ)といふものをやるとて、
〈口語訳〉 二条の后(清和天皇の女御、藤原高子、八四二〜九一〇年)の、まだ帝(清和天皇)にも仕うまつりたまはで、ただ人(臣下の身分)にておはしましける時のことなり。 いわゆる二条の后章段の一つである。短いが、『伊勢物語』の基本構造がよく現れている。注意すべきは、地の文にも和歌にも敬語が見えないことである。後半の「二条の后」以下は、本文への批評部分で、ここには敬語が用いられるが、地の文とは明瞭に区別される。批評部分は二次的な付加ではなく、地の文と一体のものとして読み解かれなければならない。この二重構造が、『伊勢物語』の物語の方法になる。 批評部分では、宮廷社会の身分秩序が前提としてあるから、そこには敬語が用いられる。問題は、地の文である。二人の登場人物は「男」「女」とのみあり、身分秩序を遮断した書きぶりになっている。一人の「男」、一人の「女」として互いが向き合っている。言い換えるなら、社会の秩序から離脱した二人だけの独自な世界が志向されている。ならば、ここに敬語を用いる必要はなく、和歌にもまた敬語は現れない。一方、批評部分は、そうした本文の世界を相対化して、読者の前に説明的に呈示する意味をもつ。だからこそ、身分に応じた敬語が用いられることになる。 同じ歌物語でも、『大和物語』は大きく異なっている。そこでは、宮廷社会の身分秩序を前提とする書きぶりになっているから、和歌に敬語は使用されないものの、地の文には敬語が多用される。『伊勢物語』に近いのは、『平中物語』であろう。 「男」「女」の呼称は、『源氏物語』の男女の逢会の場面にも見える。『源氏物語』の登場人物は、官職や身分による呼称によって待遇されるのが原則であり、敬語も多用されるが、恋人同士の場合、逢会の極点(情交)の場面になると、それぞれが背負う一切の社会的関係から切り離され、「男」「女」の呼称のみで表現される箇所が現れる。その典型は、「賢木」巻の光源氏と六条御息所の出逢いの場面であろう。『源氏物語』では、そうした場面でも敬語は用いられるが、それでもなお、この「男」「女」の呼称は、「恋の場面を強調する呼称」「男女関係強調の呼称」(『完訳日本の古典 源氏物語』の頭注に散見される)と見てよい。つまり、二人だけの世界が形成されていることの指標(記号)になる。そこで詠み交わされる歌には、敬語は使用されることはない。
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