第十回 古典を学ぶ意味
古典を学ぶ意味はどこにあるか今回で全10回の連載を終えることになるが、最後に、現代において古典を学ぶ意味がどこにあるのかについて記してみたい。 近年、文学部の学問、人文学に対する風当たりがすこぶるつよい。人文学無用論が声高に叫ばれたりもしている。中でも、文学研究に、その鉾先が向けられている。 そうした動きは、いまや国語教育にまで及ぼうとしている。事実、教育の場で文学を教えることの大切さが、次第に失われつつあるように感じられる。とりわけ、古典の教育への軽視が際立つ。実生活には役立たないというのが、その理由であるらしい。 しかし、ほんとうにそうなのか。人文学無用論に対する反論は、何度か試みてはいるが(塩村耕編『文学部の逆襲』〈風媒社 二〇一五年〉、江藤茂博編『文学部のリアル 東アジアの人文学』〈新典社 二〇一九年〉に、そうした反論を寄せた)、もどかしいことながら、議論を仕向けたい相手(新自由主義を標榜する文教政策の推進者)にはまったく届いていない。そうした残念な状況ではあるが、ここでは古典を学ぶ意味がどこにあるのかについて、少しばかり述べてみたい。
|
|||||||