第四章 評論2 「異文化としての子ども」 本田和子
③子どもの表現――身体の表現「身体の表現」について三浦雅士はこう指摘しています。 想像力といえば、意識の問題と考えられがちだが、そうではない。それはまず身体の問題なのだ。身体がまず他人の身体になりきるのである。その運動、その緊張、その痛みを分け持ってしまう。想像力の基盤は身体にあるとさえ言いたいほどである。(三浦雅士「考える身体」) 「意識」ではなく、「身体」こそが想像力の基盤であるという指摘は、まさに子どもに当てはまります。砂場や消防署で見せた子どもの感覚や発想が、それを裏付けています。また、子どもは、いろいろなものをまねてよく遊びますが、それも身体的な把握ということなのです。理性的な理解や把握ではなく、まねを通して対象と自分とをつなげているのです。また、三浦はこう続けています。 舞踊や遊戯は、身体を介して、人と人の共同性のみならず、人と自然の共同性をも教えたはずである。身体の想像力は、人と動物、人と自然の境界をも、やすやすと越えたはずだからだ。 「身体の想像力は、人と自然の境界を越える」というこの指摘も、子どもが身体を通して、直接、人や自然と結びついていることと合致しています。近代の理性と意識で、自然と自らの間に境界を設けてしまった大人と、子どもの違いがここにあることがわかります。
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