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「高ため」を黙読する授業

(この連載は、機関誌『国語通信』1996年春号~1999年春号に掲載された文章を転載したものです。)
第1回 わたしのアンソロジー
第2回 密室をつくる
第3回 逆習シール
第4回 テキストを編集する
第5回 モーツァルトへの手紙
第6回 教室に風を入れる
服部左右一(はっとり・さういち)
愛知県立小牧高等学校教諭
元愛知県立小牧工業高等学校教諭
『高校生のための文章読本』編者
筑摩書房教科書編集委員
長年「表現」分野の指導メソッド開発に携わる。

第3回 逆習シール
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5 ランキング

 シールの色は赤にした。にぎやかになるからだ。ノート点検のとき、赤いシールが最初に目に入ってくる。あの子は五つ星、この子は三つ星というふうに星の数を調べていくと、その文例がどれくらい受け入れられたかのおよその傾向をつかむことができる。感想を書かずにシールだけ貼っている子もいるし、毎回三つ星を貼り続ける子もいる。

 逆習シールを貼ることで生徒と教師のコミュニケーションの手立てが一つ増えたことになる。感想・レイアウト・逆習シールによるランキング、一人ひとりの生徒はそれぞれこの三種類のメッセージの内からどれか一つを選ぶことができる。自分の得意なもの一つに絞ってもいいし、三種類すべてに全力投球してもいい。受けることばかりを教えられてきた生徒が、今度はボールを投げる立場になったわけである。

 生徒が投げたボールを教師が受け止めて、返球する。野球で言えばキャッチボールだが、これも慣れないうちはうまくいかない。何百回、何千回練習して少しずつうまくなるのと同じように何回か続けていくうちに心の回路が通じてくるような気がする。

 三年生のN君は『高校生のための小説案内』で「魔の山」(T・マン)を読み、こんな感想を書いた。

③ 彼は杖(ストック)を突き、スキーを踏みだして前進し、森のふちに沿って、厚く雪におおわれた傾斜を深い霧の中へ滑降し、のぼったり下ったり、当てもなくのんびりと死のゲレンデを動きまわった。
④ これは山でそうなんした人のことをかいていると思うのだが、「のぼったり下ったり、あてもなくのんびりと」というところが、この人の心を一番あらわしているところだと思った。なんかたった一行の文章だが、そうなん者のさびしさや死への恐ふがでていた。とてもかなしい文章のように思えた。山のこわさを山のおそろしさを考えさせられた。山でけがしたことのある私にとってとてもいやな文章だった。(N君)

  「魔の山」はかなり重厚なので総スカンを食らうかもしれないとこわごわ差し出した文例なのだが、そうした障害とは別の次元で読み通す生徒がいたことは驚きであり、また感動でもあった。N君はスキー研修時の骨折治療が長引き現在も欠席がちで何となくひ弱なイメージに映っていたが、この感想を読むと、文例を自分のこととして、しかも嫌悪の気持ちを抱きながらも最後まで読み通せる強い精神の持ち主であることが伝わってくる。ノートの⑥には赤い★シールが一枚貼られていた。

 例えば、この逆習シールを「高ため」の目次のページに貼り続けて自分だけのランキング表をこっそり楽しむのもいい。ノートに貼って提出することになれば、意識しないと言っても教師の目を気にしたランキングになってしまう。それはそれとして、ほんとうは自分はこうなんだという秘密のランキングがあっても面白い。

 目次に印したランキング一覧表は一目でわかる。シールで自分流に作り替えた本を手にすれば思いもまた違ったものになるだろう。こういうときは、やはり重みと厚みが手で感じとれる書物という形がほしい。学校の授業といえども、質感や量感が大切だと思う。教師はどうしてもたくさん教えこもうとしてプリントをジャンジャン作る。現代のテクノロジーがその傾向を助長する。プリントを受け取ると生徒も勉強した気になるが、次々与えられるだけでは受け身的であることにかわりはない。

 ノートにしても黒板を写すことに終始するのではなく、所々に自分だけの書き入れをしたり、テキストにしてもコピーを貼って文例の入れ替えをしていけばオリジナルなアンソロジーになっていく。書き入れやコピーを満載したノートや自分流「高ため」テキストであれば、テスト終了即ごみ箱直行型行動も少なくなるだろう。授業中に自由に書き込みをしたノートやテキストが「世界に一冊しかない本」として時には手もとに残ってもいいんじゃないだろうか。

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