ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 「高ため」を黙読する授業第三回(6/6)

「高ため」を黙読する授業

(この連載は、機関誌『国語通信』1996年春号~1999年春号に掲載された文章を転載したものです。)
第1回 わたしのアンソロジー
第2回 密室をつくる
第3回 逆習シール
第4回 テキストを編集する
第5回 モーツァルトへの手紙
第6回 教室に風を入れる
服部左右一(はっとり・さういち)
愛知県立小牧高等学校教諭
元愛知県立小牧工業高等学校教諭
『高校生のための文章読本』編者
筑摩書房教科書編集委員
長年「表現」分野の指導メソッド開発に携わる。

第3回 逆習シール
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6 世の中に出てからも

 提供された文例を評価しランク付けすることは、教えられるべき存在として位置付けられた生徒の立場を逸脱するものではないかという叱責が聞こえてきそうである。でも、半年たてば三年生の多くは世の中に出て行く。世の中に片足を突っ込んでいるかれらが自分で自分の読みたいものを選択する時期がそこまで来ている。

 いや、そうではない。逆習シールによるランキングは読書の楽しみの代償措置にすぎない。「好きなものを読む」ことが読むことの楽しみの源泉である限り、そこから外れるほど楽しみもまた目減りする。読書の楽しみを奪われたままで繰り返されていく国語の授業とは、果たして一体何なのだろう。楽しみに向かうはずのベクトルの方向がはじめから逆を指し示しているのではないだろうか。

 読書をすることは世の中に出たら必要だし大切なことだ、と説教するよりも、読むことの楽しみを体験できるようないろんな仕かけを工夫することから始めたい。黙読させたり、ノートを作らせたり、レイアウトを考えさせたり、あるいは逆習シールを貼らせたりするのもそうした工夫のあれこれである。

 この方法を実習し続けてきて、大事なことが見えてきた。生徒は教室という擬似密室の中で「自分のペース」をさぐらなければならない。通読・再読・熟読・速読・味読・積読・中毒など、読むことの模索をする。読むことの楽しみも苦しみも、この手さぐりの中からしか生まれない。読むことの楽しみを棚上げにして、苦しみを一方的に押しつけるこれまでのやり方を考え直してもいいころではないだろうか。

 教師の前を疾走するようにして世の中に出ていくかれらが町の中の本屋さんに立ち寄ったとき、ぼくたち教師が推奨するような活字の本を手に取るかどうかは分からない。もしかしてそんな機会があったとしたらという仮定の話だが、そのときは逆習シールを思い出し、たとえば

  ★ 視野のなかに入らない。

  ★★ チラッと題名に流し目を送る。

  ★★★ 手にとってパラパラとめくってみる。

  ★★★★ 立ち読みをしてみよう。

  ★★★★★ 自分で買って読みたい。

と応用することがないともかぎらない。そんなことがあったとしたら、高校時代にノートの隅に貼った逆習シールが読むことのシミュレーションとなってかれらの未来の中に生きていくのではないか、などとのんきな空想に浸ったりしている。

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