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第6回 教室に風を入れる |
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5 現役高校生と元高校生
同じようにハットリ・メソッドによる講読をすすめても高校の授業のなかではこうはいかない。多くの点において両者の間にはかなりの隔たりがある。
一つは社会的な経験の差からくるのだろう。かたや社会的経験ゼロの高校生、かたや海千山千のおじさんおばさんである。社会に出て働きもし、恋愛もし結婚もし、子育てもしている。嫌なことも、辛いことも、他人にも言えぬ悲しみも何度か体験した。そのうえ、最近のカルチュアブームに乗っての読書量の豊富さがある。のほほんと育ってきた高校生が口八丁手八丁の社会人に太刀打ちできるはずがない。
受講人数の少なさもある。今回のチャペック受講者は、ヨーロッパ文化専攻の大学院生から文学愛好者の市民など七人だった。それだけに参加者の意欲は高く、欠席もほとんどない。意欲のある人が生活の時間を削り、パートタイムの仕事を休んで土曜日の午後集まる。しかも、七人の少人数での読書となれば、フリートーキングも自然に熱を帯びるだろう。
このように両者を比べてみると、参加者の意欲、読書量、社会的な経験、受講人数、教室の建築学的環境(ビデオやCDのために視聴覚室を三回使ったが、市民会館と学校では雲泥の差があった)などなど、どこを取っても高校の方が分が悪い。
しかし、それ以上に決定的な差があるように思われる。それは高校生が青春の真っ只中にいるということである。
文例を読んで沸き上がってくるさまざまな思いは社会人にとってはある程度自分から分離した世界を作っているので、それを手際よくまとめたり口頭で発表したりしてもそれほど苦にならなくなっている。ところが、高校生ではそうはいかない。自分自身と未分離のまま身体中で激しく渦巻いている未知の体験に感じられたのだろう。まとめるというよりむしろ翻弄され、どこに運び去られるか見当のつかない冒険の世界に足を踏み入れるようなものだ。触発された思いが自分の生の体験と直結して身動きできなくなる現象もよく見られる。いじめの体験、万引の記憶、一途な自己探究がときどきストレートな自己表出の文章としてほとばしり出て、現在進行形の青春のごつごつした地肌を不器用に露出させる。これは元高校生、つまり社会人がほとんど失いかけているものである。
③これきし自分は腐っていくんだと思った。それでいいんだと思った。早く腐りきってしまえと思った。長い人生むだばかり。明日なんかもうない方がいいんだと思った。(文例50・畑山博「時間のない町」)
④この話を読んだら自分が不安になってきた。僕はつまらない人間にはなりたくない。でも「なぜ僕はここで、何のために勉強するんだ?」とか「生きることに何の意味があるのか?」とか、哲学っぽいことを考えてもわからず、今も何のへんてつもない毎日を過ごしている自分が恐い。(O君) |
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