第三回 『万葉集』は素朴か
宮廷歌のありよう一つ例を挙げて考えてみよう。初期万葉(『万葉集』第一期)の代表的歌人額田王(生没年未詳)の歌である。 君待つと我が恋ひ居れば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く 〈口語訳〉 教科書にも採録されたことのある歌だが、現在のものには見えない。題詞には、「額田王が天智天皇(六二六~七一)を思って作った歌」とある。風による簾の微かな動きを、恋人の来訪と見紛えたことが歌われているが、このような発想が生まれるについては、中国六朝の閨怨詩(夫と離れている妻が、独り寝の寂しさを怨んで詠んだ詩。妻の立場を仮構して詠むことが多い)の影響があるとする指摘がある。「簾動けば君が来るかと憶ひ」(費昶「有所思」『玉台新詠』)などの例を見ると、影響のあとは確かにうかがえる。 この歌に、鏡王女(?~六八三)が、次のような歌で応じている。 風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ 〈口語訳〉 額田王と鏡王女とは、姉妹説もあったりするが、その関係はよくわからない。額田王が、人を待って来ない寂寥感を歌っているの対して、鏡王女は、「風」ほどにも頼りにならぬ人の心の無常を示すことで、待つことすらなしえぬ心の空虚さを表現している。巧みな切り返しといえる。注意したいのは、額田王の歌が、天智天皇に向けられているにもかかわらず、これに応じたのが鏡王女であることで、そこからこの二首が、一種の文芸的な興味によって作られた唱和であることが理解される。この二首は、「秋風に寄せる恋」といった題の題詠的競作(あらかじめ用意された題に即して詠むのが「題詠」)であり、そこにはさらに中国六朝の閨怨詩が踏まえられているから、きわめて高度な文芸意識がここに現れている。大陸文化が大きく花開いた近江朝(琵琶湖のほとりの大津宮を宮都とした天智天皇の時代)の文運の精華の一端を、ここに見るべきなのかもしれない。ならば、この唱和も知的な「あそび」であり、宮廷文化の一つのありようを示していることになる。この唱和のどこに「上代人の素朴で純粋な生活感情」が現れているだろうか。しかも、こうした歌こそが、『万葉集』のもっとも中心に置かれるべき歌なのである。
|
|||||||