第三回 『万葉集』は素朴か
教科書に載せられない歌「あそび」の延長上に、こんな歌もある。娘子たち(若い女たち)が、僧を揶揄した際の歌である。テーマもそうだが、性的な表現が含まれるので、教科書には載せられない歌だろう。
娘子たちが、干し鮑(乾鰒)を通観という僧のもとに持参して、何とかこれを生かして海に放してほしいと願った際に、通観がこの歌を詠んだとある。捕らえられた生き物を放つ行為を放生といい、仏教的な功徳があるとされたが、その際、僧を呼び呪文を唱えて祈願してもらうのが定法とされた。この「呪願」にもそうした意味がある。問題は、娘子たちが持参したのが干し鮑だったことである。絶対に生き返るはずはないのだが、それが鮑であったことが注意を引く。鮑は女陰の比喩だからである。航海安全を祈願する際、海神に女陰を見せる呪術があったらしく、『土佐日記』では、それを「貽鮨、鮨鮑をぞ、心にもあらぬ脛に上げて見せける。(貽貝の鮨や、鮨鮑を、思いもかけぬ脛まで高々とまくりあげて、海神に見せつけたことであった。)」と描写している。ここでも貽貝や鮑が女陰の比喩になっている。貽貝は一名似たり貝とも呼ばれる。古代の宮廷歌謡である催馬楽「我家」にも、「御肴に 何よけむ 鮑・栄螺か 石陰子よけむ」と歌った例がある。男に我が家に婿にお出でなさいと誘う体の歌謡である。この「石陰子」はウニの古称とされるが、貽貝とする説もある。この「鮑」も、無論、女陰の象徴であろう。 それゆえ、先の『万葉集』の歌でも、女たちが干し鮑を僧のもとに持参したというのは、かなり大胆な行為といえる。女犯を禁じられた僧を挑発・揶揄しようとする遊び心があるのだろう。こういうやりとりが『万葉集』に見えるところがおもしろい。受け取った通観の歌がまたいい。いかにも四角四面の堅物の僧らしい歌いぶりである。「うれむそ」は、きわめてめずらしい言葉。「何ぞ。どうして。」の意で、反語を導く副詞のようだが、僧独特の言い回しかもしれない。ならばその生真面目さがかえって諧謔を生むことになる。身分・職業に応じた独特な言い回しを、役割語と呼ぶらしいが(役割語については、大阪大学の金水敏氏の研究が詳しい)、この「うれむそ」にも漢文訓読調のニュアンスが感じられるから、これも役割語と見てよいのかもしれない。 それはともあれ、この娘子たちは、説明の中では若い女たちとしたが、おそらく宮廷の女官たちであろう。平安時代でいえば女房になる。その女官たちが、性的なふるまいによって僧を挑発・揶揄する。これも、実は、宮廷文化の一つのありようを示している。先に例示した催馬楽からも、隠喩であるにせよ、時としてこうした露骨な性の表現が、当時の宮廷文化の中にありえたことを確かめることができる。それもまた「あそび」の実態に違いない。冒頭に述べたように、日常の秩序からの離脱、反俗の行為の徹底こそが、宮廷文化の本質だった。この娘子たちのふるまいも同様に見てよい。ならば、こうしたやりとりを含む『万葉集』の歌の世界は、とても「素朴」などとは評しえないことがわかる。
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