第六回 旋頭歌はおもしろい
旋頭歌のおもしろさ(一)高麗錦紐の片方ぞ床に落ちにける 明日の夜し来むと言ひせば取り置き待たむ 〈口語訳〉 女の歌である。前句の「高麗錦」だが、高麗渡来の錦の意で、最高級の織物をいう。高麗錦で作った上等な上着に縫い付けられていた紐が「高麗錦の紐」なのだろう。それが寝床に落ちていた。ならば、この前句は、女のもとに通って来た男が、きわめて高貴な身分の男であったことを暗示していることになる。到底ありえない男女の関係がほのめかされている。後句は、それに対する説明や解釈になるが、現実にはありえない貴公子の通いを、後句でどのように受けるのか、ということへの興味が、この一首を成りたせている。一種付合に似た妙味を楽しもうとする意識がここにある。この歌を「女集団の民謡」(講談社文庫『万葉集 三』)とする理解もある。民謡と見てよいかどうかは問題だが、基本的にそうした性格の歌であるのは確かだろう。東歌に収められた稲舂女(籾を碓で精米する女。精米は女の役目で、かなりの重労働)たちの労働歌に、 稲舂けば皹る我が手を今夜もか殿の若子が取りて嘆かむ 〈口語訳〉 という一首がある。これも現実にはありえない状況を想像して歌っているから、先の旋頭歌と共通する歌の場があったことの傍証になる。「明日の夜し来むと言ひせば取り置き待たむ」という後句が付加された時、聴き手たちの哄笑も生まれたかもしれない。 次のような歌もある。 夏蔭の妻屋の下に衣裁つ我妹 うら設けて我がため裁たばやや大に裁て 〈口語訳〉 男の歌である。夫のために衣を仕立てるのは妻の役目で、もともとは来臨する神のために水辺で神衣を織るタナバタツメ(織女)の像が基底にある。この歌について、品田悦一氏が興味深い読みを示している。新婚らしい女の裁縫仕事を見ていた第三者の男が、夫を気取って、女に「我妹(わが妻よ)」と呼び掛け、「私のためならもう少し大きめに裁ってくれ」とからかって歌い掛けたのだとする(「人麻呂歌集旋頭歌における叙述の位相」『万葉』四九)。この理解が適切である。男は夫よりも少し大きな体型だったのだろう。 ここで参考になるのが、催馬楽「夏引」である。 夏引の 白糸 七量あり さ衣に 織りても着せむ 汝妻離れよ 前半が女の誘い掛けで、後半はそれに対する男の答えになる。「夏引の 白糸」は春蚕の糸を夏に紡いだもので、夏蚕よりもずっと上質とされる。「夏引の糸で上等な絹の着物を織って着せてあげるから、あんな奥さんとは別れておしまいなさい。」という女に対して、男は「どうせお前の縫う下等な麻の着物だって、うちの奥さんのように着心地よくゆったりなんて仕立てられっこないよ。」と応じている。女の言葉もからかい半分なら、それに応じた男も愛妻自慢で相手をはぐらかしている。このやりとりの呼吸がおもしろい。この呼吸は、先の旋頭歌にも通ずる。旋頭歌の「やや大に裁て」は、催馬楽の「袂よく 着よく肩よく 小頸安らに」のような意味かもしれない。 そこで、旋頭歌だが、全体としては新婚の妻に対する第三者の男のからかいと見てよいが、それがわかるのは、後句が付加されるからである。前句のみでは、単に状況を提示しただけに過ぎない。後句が付加されることで、前句は「我妹」への呼び掛けになる。結果として、意想外の展開が生み出されるわけで、こうしたところに旋頭歌の表現性が現れている。集団性・口誦性はここでも濃厚である。
|
|||||||