第六回 旋頭歌はおもしろい
旋頭歌のおもしろさ(二)住吉の出見の浜の柴な刈りそね 娘子らが赤裳の裾の濡れて行かむ見む 〈口語訳〉 「住吉の出見の浜」は、大阪市の住吉大社の西の浜辺というが、よくわからない。「出見の浜」には、あるいは「出て見る」という意が含まれているのかもしれない。ここでは、前句で「柴を刈らないでくれ」と要求している。これも状況の提示になる。後句は、その理由を、「娘子たちが赤裳の裾を濡らして通るのを、柴に隠れてこっそり見ようと思うからだ。」と説明している。「赤裳」は、もともと官女の装いであり、住吉は行幸の地とされたから、「娘子ら」も浜遊びをする官女の像が意識されているのだろう。潮に濡れた赤裳の裾を下半身にまとわりつかせている光景は、肌が透けて見えるから、すこぶる官能的であるとともに、美女の理想的な姿とされた。なかなかエロティックであるが、その陰に隠れてのぞき見するから柴を刈らないでくれというのは、ずいぶんと卑俗な理由づけになる。前句の禁止の理由を、後句で説明しているのだが、その落差がおもしろい。ここにも聴き手の意表を突く仕掛けがある。 意想外といえば、聖なる世界を卑俗な世界に転換させた、次のような一首もある。 天にある日売菅原の草な刈りそね 蜷の腸か黒き髪に芥し付くも 〈口語訳〉 前の歌と同様、前句では「草を刈らないでくれ」と要求している。ただし、その草は、天上世界のものらしい。天上世界には聖なる菅が生えており、ここはその菅原の草をいう。そこは逢引きの場の褥にもなるから、天上の聖婚の場の印象が喚び起こされることになる。ところが、一転、後句では草を刈ってはならない理由を、共寝する女の髪に「芥(ごみ)」が着いてしまうからだと説明する。地上世界の現実性がかえってつよく浮かび上がる。天上の聖婚の場の印象を、後句の卑俗さが覆している。前句と後句の落差が大きいだけに、ここでも聴き手に意想外の思いを抱かせることになる。こうしたところに旋頭歌のおもしろさが現れている。『万葉集』の歌が生真面目一方の歌ばかりでないことが、ここからもわかる。
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