6 「ことば遊び」コレクション
この「ことば遊び」コレクション・カリグラム編は現代文の延長上で行なった、表現の授業と言える。現代文から表現への、橋渡しができあがったのだ。
以前表現の授業の中でカリグラムを作らせようとしてうまくいかなかったことはすでに述べたが、そのときはある小説の一部とか詩の一節をこちらから与えてカリグラム化するように指示したのだった。教師から前もって与えられたことばをカリグラム化する、いわば受け身的な作業では、創造的なものは生まれない。自分で文を作りながらカリグラムを作るとなると一層むずかしくなるが、その分貪欲に楽しむ姿勢が生まれてくる。
しかし、ここで一つ課題が残った。カリグラフィーのしめくくりとしてこの一部限定の回覧雑誌「勝負だ! モーツァルト!」を回覧しようとしたところ、一部の作品に作者の署名が載っていて、回覧して読まれるとイヤだという声が上がったのだった。そういうこともあろうかと予測して氏名欄を消しておいたが、手紙の中に何人かの名前が残っていたわけだ。想像力豊かな楽しい雑誌「勝負だ! モーツァルト!」をぜひ一人ひとりの目で楽しんでもらいたいと思っていたが、これは実現しなかった。
「高ため」を黙読する授業では、「高ため」に収録された作者の文例について前述の①~⑥の設問を解答することになっていて、③は「本文の中からもっとも気に入った箇所を三行以上書き抜き」、④は「③についての感想を一行以上書く」ことになっている。③と④の項目は編集されプリントになってフィードバックされるので、生徒は、同じ文例を他者がどんな表現に関心を持ち、どのような感想を抱いたのかを知ることができる。お互いにそれが刺激材料になって次の文例への糧になっていくように思える。「蝿」の編集プリントを読んだあとで、「『蝿』の意味が今やっと分かったです。スゲエー」(Y)と書いて寄越した感激屋さんもいた。
そのような目で自分の日々の暮らしを眺めてみると、わたしたち一人ひとりが他の人とどう違っているか、わたしたちが何を選択しどう読むか、何に出会いどう感じるかということ、つまり日頃の一場面一場面の批評行為の積み重ねが「わたし」を作り出していることが分かってくる。
にもかかわらず、授業という特別の枠に縛られるとにわかにその実行が難しくなっているのが、学校と取り巻く現在の状況でないだろうか。
以前は表現の授業でも一行批評と名付けた感想を書かせていたし、いまも社会人対象の文章教室では実行している。互いの作品を楽しむことを主眼にした一行批評の取り入れ方について少し考えてみたいと思っている。 |