第七回 非正統の万葉歌――巻十六から
「無心所著歌」と和歌の本質ところで、巻十六に「無心所著歌(心の著く所無き歌)」と題された不思議な歌がある。これも物名歌の一種になるが、先の歌とは違い、まったく意味が取れない。「心の著く所無き歌」の「心」は、謎々で「その心は」という時の「心」と同様、意味あるいは脈絡をいう。そこで、「無心所著歌」は、意味の取れない歌になる。 心の著く所無き歌二首 〈口語訳〉 この二首は物名歌と見てよいが、そこに詠み込まれた事物は、一首目では「額」「双六」「牡牛」「倉」「瘡」、二首目では「犢鼻」「つぶれ石」「氷魚」になろう。 この二首では、それらの事物を詠み込んで一首を構成してはいるものの、それぞれの事物は一切脈絡をもたず、文字どおりのナンセンスな歌として呈示されている。 とはいえ、複数の事物を詠み込んで、まったく意味の成り立たない歌を作るためには、相当に高度な技量が必要とされる。そこで舎人親王(六七六~七三五。天武天皇の皇子)は、そうした歌がうまくできたら褒美を与えようと言ったのだろう。作者の阿倍子祖父は、伝未詳。 この左注からも、こうした歌が座興として作られていた事実が確かめられるが、重要なのは、ここから和歌の本質がどこにあるのかが見えて来ることである。 「無心所著歌(心の著く所無き歌)」は、先に意味のとれない歌と説明したが、より正確には心(意味)が依り憑かない歌ということだろう。左注の「由る所無き歌」も同義。そこで、ここから反対に、歌とは心(意味)の表現を初めから目指すものではなく、心は後から依り憑いて来るものであることが見えてくる。言い換えるなら、心は後から発見されるということでもある。心を心情と見る場合でも、自分の心(心情)が見出だされるのは、契機となる何かに出会うからで、初めからその心が自覚されているわけではない。『源氏物語』で、紫上が手習いのように古歌を書き付けていて、それが嫉妬の歌ばかりであることに気づき、そこで初めて秘められた自分の心に気づいたという例(「若菜上」)は、そのことをよく示している。歌もまた、もともと、それを詠じていく中で、はじめて歌い手の心(心情)が立ち現れてくるようなものだった。心と詞の出会いであり、それもまた心が依り憑くということだろう。 ならば、初めから心(意味)をもつことは、必ずしも歌の本質とはいえないことになる。「無心所著歌」の場合、意識的に脈絡の取れない歌を作り出してはいるのだが、それにもかかわらず、こうした「心(意味)」をもたない歌が歌であるのは、五七五七七の音数律に支えられているからだろう。音数律という特別なしるしをもつことで、これらの歌は歌でありえたことになる。 ならば、歌の本質を支える基本は、まずは音数律にあったことになる。巻十六のこのような歌は、決して正統な歌とは言いがたいが、それゆえにこそ正統とは何であるのかを明らかにする意味をもつ。そのことをここでながめてみた。
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