第十回 古典を学ぶ意味
世界の捉え方の違いごく大づかみにいうなら、私たちが生きているこの世界のありかたが、古い時代といまとでは大きく異なっており、古典を学ぶことによって、その違いについて考えることができるようになる。それが、古典を学ぶもっとも大きな意味の一つなのではあるまいか。 世界のありかたが異なっているといま述べたが、むしろ世界の捉え方の違いといったほうがよいかもしれない。現代の私たちは、私たち人間を中心にして、すべての物事のありかたを考える。しかし、古代の人びと――ここでは、『万葉集』の時代を念頭に置いているが、古代の人びとは、そうした人間を取り巻く自然、それを神の意志の現れと捉え、人間はそうした自然の中で生きているのだと考えた。 そのことを、自然現象を表す言葉によって検証してみよう。葉の上などに露が降りることを「露置く」という。いまの学校文法では、「露」を主語、「置く」を述語の動詞と捉える。自動詞・他動詞という言い方を用いるなら、この場合は自動詞になる。それでは、「(机の上に)本を置く」といった場合は、どうなるだろう。こちらは学校文法の説明だと他動詞になる。しかし、同じ「置く」が、自動詞にも他動詞にもなるというのは、見方を変えるとおかしい。実は、自動詞・他動詞というのは、西洋語の概念(実は主語という概念も)による区別であり、日本語ではそうした区分をもたないのが本来だった。「露置く」の場合も、「本を置く」と同じように、何か大きな存在が「露」を「置いた」。このように考えるのが適切であろう。木下正俊氏は、類似の動詞、たとえば「波寄す」「風吹く」などを例に、 広く自然現象や人体などの、自分の意志ではどうすることもできないような、いわば不随意現象を表現するに当たって、何かそのような作用を起こすものがあるのだ、と考えることが、かなりあったと知られる。……「波寄す」「風吹く」などの表現は、「神」が「波をして寄らしむ」「風をして吹かしむ」と考えた古代的思考の産物と言ってよいのではないか。 と説いているが、このような理解に立つのがよいように思われる。
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