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第3回 “復員兵が見た世界”―定番教材にひそむ戦場体験 |
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中内功のサバイバーズ・ギルト
ノンフィクション作家の佐野眞一さんによれば、アメリカ的な大量消費社会を支える流通業へと中内功を駆り立てていたのは、フィリピンでの戦場体験だったと言います。
中内は、フィリピンの戦闘をふり返って次のように語っている。
「敵弾を受けて、天皇陛下万歳なんていうヤツは、勲章が欲しいヤマ師だな。傷が浅いから、そんな山っ気を出す。本当に瀕死のヤツは“やられた”とか、“お母さん”とか“助けてくれ”といって、泣きよるだけです」
中内はまた、勇敢な兵士ほどあっけなく死んでいった、僕は卑怯未練な男だったから、生きて日本に帰ることができた、ともしばしば語っている。
「前線で弾丸が飛んでくるなかで、恐怖心を忘れたかのように勇敢に突撃していく部隊もいました。しかし、われわれのような少しばかり教育を受けた者はたいてい卑怯でした。なるべく弾が当たらんようにと祈って、勇敢な兵隊たちの後からついていくようなことが多かった」
いまでも中内は戦争に生き残ったことを強く愧じており、死んだ戦友たちが“神”として祀られた靖国神社には一度も足を踏み入れていない。
(『カリスマ――中内功とダイエーの「戦後」』1998年・日経BP社)
中内功のサバイバーズ・ギルトがくっきりと浮き彫りになっている部分です。
中内功が戦争で一番おそろしいと感じたのは、「隣にすわっている日本の兵隊」だったそうです。隣の日本兵にいつ殺されるかと思って眠れない夜が続いたと言うのです。補給を断たれたフィリピンの最前線には、生き残るために戦友すら殺しかねない極限状態がありました。戦友の屍肉を食べて生き延びた者さえいたと言われています。中内功は、想像を絶する苛酷な戦場で、日本軍の兵站(ロジスティック=物資補給)の貧弱さをいやというほど味わって復員しました。だからこそ中内功は、阪神淡路大震災のときにはヘリコプターを飛ばして陣頭指揮に立ち、初期対応の遅れが目立った政府を尻目に、ダイエーグループの総力をあげて物流の確保に取り組んだのです。
言ってみれば、戦場でのトラウマ体験に裏打ちされたサバイバーズ・ギルトと、大日本帝国の指導者たちへの義憤が、大衆に商品を大量に供給し続ける流通帝国を生み出す原動力だったわけです。
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