7.生き残りの罪障感からぼんやりとしたうしろめたさへ
ぼんやりとしたうしろめたさ
教え子を戦場に送り出して自らは生き延びた文学研究者や、苛烈な戦場から復員して教壇に立った教師など、国語教科書に関わっていた人々の“生き残りの罪障感”が定番教材の誕生を促したのだとしたら、「こころ」や「羅生門」や「舞姫」がいまだに国語教科書の中で確固たる地位を保っているのはなぜでしょうか。敗戦直後に教科書の編者を務めた世代や中内功のような戦場体験を抱えた世代の人々が社会の第一線から次々に退場してしまっても、罪障感を抱えた生者の物語が根強く教育現場で読み継がれているのはどうしてなのでしょうか。
そこにはさまざまな“力”が交錯しているはずですが、高度成長期からバブル崩壊後の今日に至るまで定番教材が読み継がれている事実は、“生き残りの罪障感”という問題が敗戦後の日本人にいかに深く影を落としているかを考えさせます。
たとえばそれは、闘争を貫徹することができずに長い髪を切り、“産学共同体”の一員としてバブル経済を支えた全共闘世代の人々の中にわだかまる“罪障感”のようなものにも通底しています。
あるいは、学生運動が終わった後に大学に入学し、たっぷりとモラトリアム期の愉楽に浸り、先行する世代が作り出してきた豊かな日本の恵みをたっぷりと謳歌してきた私のような“新人類”世代が、漠然と抱いている“うしろめたさ”の気分とも地続きと言えるはずです。
さまざまな欺瞞を重ねながらも経済大国としての繁栄を続けるこの国で、少なくともパソコンが使えるような豊かさの中に生きている私たちは、死者や弱者から収奪して生き延びていく「羅生門」の下人や、外国人の少女を妊娠させた上に彼女とその子の人生を投げ出して自己の栄達を求める「舞姫」の太田豊太郎の生き方を、まったくの他人事として片付けることができない場所にいます。
苛烈な戦場体験を経て戦後復興に関わった世代の“生き残りの罪障感”は、21世紀の日本を生きている私たちのあいだに瀰漫する“ぼんやりとしたうしろめたさ”の気分と地続きになっていて、それが定番教材を延命させている大きな要因になっているとは言えないでしょうか。
象徴的な言い方をすれば、年収300万円のサラリーマンでさえも、地球温暖化の影響で水没しつつあるツバルの人々を踏み台にして生きているはずなのです。
敗戦後の日本人の歩みを“生き残りの罪障感”から“ぼんやりとしたうしろめたさ”までの振幅の中に置いてみれば、定番教材が読み継がれている理由も見えてきます。またそのような振幅の中で読み直すことができれば、多くの定番教材が、結局は同じ物語のヴァリエーションに過ぎないこともわかってきます。
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