寄稿

2014/04/01

【特集 ちくま文庫30周年記念】 創刊のころ/松田哲夫
 一九八四年八月十六日、三十六歳のぼくは、万年筆を握りしめながら、「文庫をやろう」と決心した。「文庫創刊」という目標をしっかり定めると、さまざまな問題点と、その解決策が見えてきた。次々に湧き出てくる言葉を書き留めていくと、「《文庫》の可能性について」という企画書になっていった。
 当時の筑摩書房が手がけていないジャンルのうち、雑誌と文庫とどちらを選ぶかが第一のポイント。文庫戦争の渦中で、筑摩が出す文庫をどう位置づけるかが第二のポイント。
「いま、出版の大勢は雑誌・文庫であり、その方向にますます進んでいる。……私見だが、雑誌は入り広、フリーランスの使い方など、まったく未知の領域の問題が大きい。しかし、文庫は、これまで編集・営業がやってきた仕事のスタイルの延長線上にあるのではないだろうか。
 ……文庫は、岩波の〈教養〉から、新潮の〈文芸〉、角川の〈エンターテインメント〉をへて、いま、〈何でも文庫化〉の第四の時代に突入している。……多くの社の乱入は、一方では共倒れになる可能性も含みつつ、文庫というメディアを何社かの寡占から少しずつ解き放つ方向へとむかう可能性もある。
 ……文庫乱戦、そして文庫オリジナルがふえているいま、文庫というメディアを、柔軟に、大胆に検討し、遊ぶ発想をもてたら、未知の可能性は大きくひろがると思う。文庫化しうる財産の少なさを、逆に『攻撃』型文庫にむかうバネとして、少数精鋭の部隊によって、既存の文庫群をひっかきまわすぐらいの気概でやるべきだろう」
 そうそう、文庫創刊を真剣に考えだしたきっかけは浅田彰『逃走論』だった。この本は発売前からベストセラーが約束されていた本だったが、それだけに文庫化攻勢も激しく、「あらゆる文庫が声をかけてきた」という。しかし、この本が入るのにふさわしい既存文庫はない。「だったら、文庫をつくろう」と考えた。『逃走論』を一つの核にした、まだ文庫化されていない一群の本が漠然とイメージできた。そこで、「よし、いけるぞ! 今やるしかない」と決意した次第である。
 企画書を出発点として、いろいろな角度から文庫創刊を検討していった。その時、文庫の常識、「薄く、安く、大部数」をひっくり返してみようと思った。そして、そういう常識破りをするチャンスは、まさに今しかないと思えてならなかった。
 こうしたぼくの提案に対しては、社内の各所から「自社本だけでは、すぐ尽きてしまう」といった反対意見があがった。それに対して、文庫というメディアをもつことで、オリジナルな商品を開発できると反論した。
 さて、ちくま文庫の中身だが、まずこの社の出版物のうち、最も強いものを投入する総力戦でいくべきだと考えた。単行本のベストセラーとロングセラー、ちくまぶっくすやちくま少年図書館などシリーズの売れ行き良好書、強い個人全集など、そのすべてを文庫化すべきだと主張し、おおむね認められた。さらに、創刊後にはアンソロジー「百話」シリーズ、ケルト・ファンタジー、水木しげるの漫画などを積極的に加えていった。
 かくして、八五年十二月四日、「ちくま文庫」は、吉村昭『熊撃ち』、なだいなだ『人間、この非人間的なもの』、種村季弘『食物漫遊記』、鎌田慧『ドキュメント 失業』、岡真史『ぼくは12歳』、浮谷東次郎『俺様の宝石さ』、吉本隆明『悲劇の解読』、實重『表層批評宣言』、増谷文雄『仏教百話』、『ギリシア悲劇・第一巻』、『宮沢賢治全集・第七巻』など二十点で創刊した。店頭に本が並ぶと、各地の書店から朗報が次々に届いて、一週間後までには、全点の重版が決った。
 そもそも、この文庫は、創刊時にかかる宣伝費などもあるので、初年度は赤字を覚悟していた。遅くとも三年目からは黒字に転化させたいというのが、当初の事業計画だった。ところが、スタートの好調が持続し、初年度から大きな黒字が出た。予想外のことだっただけに、うれしさもひとしおだった。

(まつだ・てつお 編集者・元筑摩書房専務取締役)

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