第八回 『万葉集』の和歌にはなぜ敬語があるのか(一)
恋と結婚、恋歌そもそも、恋とは私的な営みの最たるものといってもよい。いささか脇道に逸れるが、重要な問題なので、恋をどのように捉えるべきかを、結婚と引き較べながら考えてみたい。 恋と結婚の違いは、現在ではさほど意識されないが、結婚とは社会的に認知されている関係、恋とは認知されていない関係をいう。恋は、時として身分や家柄等々の社会的な関係を超越したところに生まれる。その典型は身分違いの恋や不倫である。それゆえ、恋の本質は、反社会的な関係であるところにある。社会の秩序から逸脱して、二人だけの世界に閉じこもろうとするのが恋だからである。それゆえ、恋は罪の匂いをどこかに宿す。一方、そうした二人の関係が社会的に認知される(公に披露される)のが結婚になる。平安時代には、これを「所顕し」と呼んだ。現代の結婚式の披露宴は、その名残ともいえる。その意味で、結婚は社会の秩序と結びつく。 このように考えるなら、恋は「公」の対極にある「私」の関係そのものになる。「公」の歌が晴の歌なら、恋歌は「私」の歌、褻の歌になる。だが、『万葉集』の恋歌を見ると、敬語がそこにしばしば現れる。敬語が社会的な身分秩序にもとづくものであるなら、これはいささかおかしなことではあるまいか。ならば、ここでも『万葉集』が宮廷歌集であるところに答えは行き着く。恋歌もまた、宮廷社会の秩序の中に位置づけられていたことになる。本連載の五回目でも引用した、鏡王女が天智天皇(中大兄皇子)に贈った次の歌は、その典型であろう。 秋山の木の下隠り行く水の我こそ益さめ思ほすよりは 〈口語訳〉 この歌も相聞に分類されている。相手が天皇(皇太子)であることがつよく意識されており、それゆえ「思ほす」という敬語が用いられている。この「す」も尊敬の助動詞。 この歌など、宮廷生活を背景にしていることが明白な例だが、そうでなくとも敬語が用いられる恋歌は、どこかで宮廷社会の秩序が意識されていると見てよい。
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