第八回 『万葉集』の和歌にはなぜ敬語があるのか(一)
平安時代初頭の和歌の状況それでは、平安時代以降の歌にはなぜ敬語が現れないのか。『万葉集』の恋歌でも、作者未詳歌(歌の成立事情も作者も不明な歌)には敬語がほとんど用いられない。そうした歌も宮廷社会で詠まれたものと見てよいが、そこではむしろ、「私」の歌、褻の歌としてのありかたが強く意識されていたのだろう。 そこで、さらに和歌史の状況を振り返ってみる。奈良時代末から平安時代初頭にかけては、漢詩文盛行の時代であり、和歌は公の宮廷儀礼の場から遠ざけられ、むしろ私的な空間に命脈を保っていた。かつては、これを「国風暗黒時代」などと呼んだりした。いま「命脈を保って」などと書いたが、それは必ずしも和歌の衰退を意味したわけではなく、和歌は人間関係を支える、いわば人々の心の通達をはかるための交流の具として大きな役割を果たしていた。その基本となるのは贈答歌であり、とりわけ男女の間で交わされるそれは、そうした交流の具としての意味をつよくもった。それらの贈答歌は、当然のことながら「私」の歌であり、褻の歌としての性格を帯びる。とりわけ恋歌は、二人だけの世界を志向するから、敬語はそこから排除されることになる。 平安時代初頭のこうした和歌の状況は、『古今和歌集』「仮名序」にも、以下のように記されている。 今の世の中、色につき、人の心、花になりにけるより、あたなる歌、はかなき言のみいでくれば、色好みの家に埋れ木の、人知れぬこととなりて、まめなる所には、花すすきほに出だすべきことにもあらずなりにたり。 〈口語訳〉 ここでは、漢詩文盛行の中、この時代の和歌が、宮廷の盛儀の場から姿を消し、もっぱら「私」の世界に、いわば褻の歌として逼塞している状況が、「色好みの家に埋れ木の」のように、やや批判的に紹介されている。ここから、和歌が当時、もっぱら私的な人間関係、とりわけ男女の交流の具として存在していたことが見えてくる。 『古今集』の撰者たちは、そうした和歌をふたたび宮廷文芸の中心に位置づけようと考え、『古今集』撰進の命が下されたことを、和歌復権の大きな一歩と捉えたために、上のような批判的な評価が生まれたものと思われる。
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