新美南吉の「ごんぎつね」
当事者が意識できない「ソフトなイデオロギー装置」を暴き立てようとする分析には、とても興味を覚えます。ただ、動物を主人公とした定番教材に埋め込まれた「見えないイデオロギー装置」は、「自然に帰れ」というメッセージを伝えてくるだけのものではありません。たとえば、「権力者」に「便利」ということだけで「ごんぎつね」が定番教材としての地位を維持し続けることができたかどうかということを考えてみるだけでも、「自然に帰れ」というメッセージを特別視して、そこに「国語教育のテーマやルール」を見出す考え方の危うさがはっきりすると思います。小学校の国語教科書に収録されている定番教材である「ごんぎつね」に、当事者が意識できない「ソフトなイデオロギー装置」を見出すとしたら、むしろ“生き残りの罪障感”という問題こそふさわしいのではないでしょうか。
ひとりぼっちの小ぎつね「ごん」は兵十がおっかあのために捕まえたうなぎにいたずらをして、結果的にうなぎを盗んできてしまいます。そのあと兵十のおっかあが死んだことを知ったごんは、「あんないたずらをしなければよかった」と後悔します。
「兵十のおっかあは、とこについていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで、兵十が、はりきりあみを持ち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎを取ってきてしまった。だから、兵十は、おっかあにうなぎを食べさせることができなかった。そのまま、おっかあは、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと思いながら死んだんだろう。ちょっ、あんないたずらしなけりゃよかった。」
ごんがいたずらをしなくてもおっかあは死んだのかも知れませんが、「自分のせいで死んだのではないか」という意識がごんの心の中にはよどんでいたはずです。そこには、肉親を自殺で失ったり、大事故で亡くしてしまったりした人たちの心の中にある、サバイバーズ・ギルトとよく似た心的状態を想定することができます。このときのごんの悔恨は、「あのときちゃんと話を聞いてあげればよかった」とか、「海外旅行に反対し続ければよかった」などという遺族に見られるのと同様のものであると言えるのです。そしてごんは、おっかあに対する負い目の意識を弁済するために、兵十の家の裏口に人知れず贈り物を届け続けたのです。
これは、「遺志の社会化」(連載第3回参照)という形で社会貢献をすることで、“生き残りの罪障感”を緩和しようとする心的なプロセスとよく似ています。
そのうえ「ごんぎつね」という物語においては、罪障感を抱えていたごんが、最後の場面で兵十によって撃ち殺されてしまいます。“罪障感”を埋め合わせるためにいろいろな食べ物をせっせと運んでいたごんを、いたずらをしに来たと勘違いして撃ち殺してしまうのです。「ごん、おまいだったのか。いつも栗をくれたのは。」と言って「火縄銃をばたりと、とり落とし」た兵十の心にも、ある種の“罪障感”が発生しているはずです。
このとき、ごんを撃ち殺してしまった兵十の心にわだかまる“罪障感”を、「自然に帰れ」というメッセージに結びつけることは困難です。
“自然”ということを言うのなら、ここからはむしろ、銃という“テクノロジー”によってごんぎつねという“自然”を圧殺してしまわざるを得ないという宿命を背負った人間の悲劇が感じ取れるのではないでしょうか。
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